新潟市議会 2022-06-21 令和 4年 6月定例会本会議−06月21日-04号
〔三富健二郎政策企画部長 登壇〕 ◎政策企画部長(三富健二郎) 新潟港は、江戸時代に北前船の寄港地として発展を続け、明治元年には開港5港のうち唯一の川港として開港し、幾多の難局を乗り越えながら、港を核としたまちづくりを進め、都市の拠点性を高めてまいりました。
〔三富健二郎政策企画部長 登壇〕 ◎政策企画部長(三富健二郎) 新潟港は、江戸時代に北前船の寄港地として発展を続け、明治元年には開港5港のうち唯一の川港として開港し、幾多の難局を乗り越えながら、港を核としたまちづくりを進め、都市の拠点性を高めてまいりました。
慶応4年、明治元年から明治2年、1868年から1869年は王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩、土佐藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦であり、名称は慶応4年、明治元年のえとが戊辰であることに由来するとしております。
また、偉人、先人の生誕の節目を捉え、企画展等を開催しており、昨年度は生誕150年の節目に当たる明治元年の年に生を受けた4人の偉人に関するパネル展をミュゼ雪小町で実施し、その功績にとどまらず、時代背景や関連した人物などもあわせて紹介いたしたところでございます。
今ちょうど明治維新150年ですけども、150年前、明治元年、戊辰戦争が行われました。高田もひょっとしたら戊辰戦争に巻き込まれて当然のまちなんです。榊原家は、御承知のとおり、徳川四天王、徳川方につく側、官軍は金沢、糸魚川まで来ていました。そして榊原藩に、おまえたちはどうするんだ、どっちにつくんだ、さんざん殿様は迷いました。榊原政敬公は大変に悩まれた。榊原政敬公はまだ22歳、非常に若かったんです。
明治元年が3,300万。ちょうど今年明治維新から150年ですよね。よく言われています。終戦のときが7,199万。2004年のピークが1億2,784万。この爆発的な変化、これが一つの文明史論的なことを理由を示しているなという。つまり明治の近代化と言われていますね。奇跡の近代化、明治の。これで3,300万からぐうんと増えたんです。
戊辰戦争とは、慶応4年、明治元年から明治2年、1868年から1869年は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩、土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦であり、名称は慶応4年、明治元年のえとが戊辰であることに由来するとしております。
長々と話したように、柏崎としても、明治元年当時、歴史に刻むような動きもありました。シティセールスでは名産品やイベントだけでなく、このような柏崎の歴史や、よさをもっと発信していこうとしています。 そこで質問です。 桑名市との姉妹都市や友好都市の締結とは言いませんが、災害時の相互応援協定以外に、今まで以上に、都市間の友好を深めていくことは考えられるのか、お聞かせいただきたいと思います。
日本が近代的な国民国家を目指した明治元年から間もなく150年。明治、大正、昭和の激動の時代、国民の生活は大きく変化し、経済大国と呼ばれるまでになりました。かつての経済大国日本はどのように生み出され、そして危機を乗り越え、成長していったのか、歴史を振り返ることは地方創生の第一歩と考えます。 時を同じくして、長岡でも河井継之助の命を受けた外山脩造、長谷川泰がおります。
さて、会津墓地とは一体どのような墓地なのか申し上げますと、明治元年、1868年9月会津藩は戊辰戦争に敗れ、領地を没収された上藩士と家族、1,742名は官軍の捕虜となり、翌2年厳冬の正月高田藩に護送され、高田城下寺町の諸寺院に収容されて謹慎生活を過ごすこととなっておりました。当時高田藩は、長州出兵、戊辰戦争に参じ、財政は困窮のきわみにあった。
旧長岡市の地域においても、明治元年の戊辰戦争のときも一帯が大洪水で水浸しになるなど、たびたびの被害を繰り返してきましたが、この解決は分水路の開設によってなされたものであります。この分水路の開設に当たっては、親子2代にわたって私財を投げ出し、信濃川の分水計画が公的な事業として必要だと江戸幕府に認めさせた本間屋数右衛門らの活動があります。
◎広瀬 観光課長 今ほどのお話で幕というのがございましたが、あれは順動丸、それから長岡が描かれている明治元年越後大合戦の略図というやつで、拡大して掲示させていただいております。 それで、展示会場の内容ですが、そのものとシャフト、それ以外に長岡ゆかりの白峰駿馬、それから本間精一郎というような人物紹介のパネルもあわせて掲示をさせていただいております。会場全体に物語性を持たせた内容になっております。
3点目に、この明治元年から19年後に高田の政治家、室孝次郎翁が信越線を引いた。明治19年です。わずか19年の間に日本で2番目に古い、1番目は御承知のとおり横浜―新橋ですけども、2番目に直江津―関山間、これを引いたという現実、これはすごい政治力だと思います。政治の力が動いたということであります。しかし、残念ながら信越線を引いてもなかなか高田の経済が、あるいは産業が伸びなかったんですね、人口も。
明治元年、廃仏毀釈のときに多くの仏教的文化財が壊されたり、海外に流出しました。皆さんよく知っている法隆寺の五重塔までが当時は売りに出されました。金額は覚えていないですが、かなり安かったと記憶しています。しかし、取り壊し費用がかかり過ぎるというので五重塔は難を逃れたのです。記憶に新しいところでは、世界遺産バーミアンの石仏が破壊された事件もありました。物のわからない人は、平気で愚かなことをします。
明治元年10月1日創立、この小千谷小学校改築にかける思いをお伺いし、質問を終わります。 答弁のいかんによりましては、自席にて再質問をさせていただきます。 ○議長(猪又周治君) 関市長。 〔市長 関 広一君 登壇〕 ◎市長(関広一君) 風間議員の御質問にお答えいたします。
維新前後の大変革期に身命を賭して国事に奔走された志士大橋一蔵は、嘉永元年(1848)2月16日、蒲原郡下鳥村(現見附市)代官大橋彦蔵の長男として生まれ、明治元年(1868)、越後府知事代行四条のもと、府判事となった松下村塾の俊才前原一誠は、年貢半減令を発し、また蒲原農民積年の宿願、信濃川分水を上申する。明治6年西郷隆盛らが下野し、新政府打倒の嵐各地にあがる。
戊辰の戦火がおさまった明治2年(1869年)から、長岡藩士族の若者が廃墟となったふるさとを後に、明治元年移転新築された福沢諭吉創設の慶応義塾を目指しました。ここは当時、規模、内容とも日本随一の英学塾であったと言われております。この年に幕府の開成所で洋学を学んだ藤野善蔵など10名が、また翌明治3年には小林見義など9名が入ったとのことであります。
しかし,新潟港の開港は安政5年の10年後の明治元年であります。 明治41年にできた安政5年の五と五港の五をひっかけた当時のデザイン感覚はまず立派でありましょうが,説明文は新潟だけの特徴でなく,横浜など他の4港にも共通するものであります。新潟は10年後に開港しましたが,それまでの紆余曲折こそ子々孫々までに語り継がなければならない郷土の生の歴史ではないでありましょうか。